白地に赤い聖ジョージ十字、その中央に赤い手が乗った白い6角星と王冠。北アイルランドの旗は、アルスター・バナーと呼ばれます。しかしこれは1953〜1973年の旧政府旗で、現在は公式には使われていません。北アイルランドは、世界でも珍しい公式国旗を持たない構成国なのです。今回はそんな北アイルランド旗の話です。
まずは構成のおさらい
アルスター・バナー(旧公式旗)の構成は、次のとおりです。
- 背景:白
- 赤い聖ジョージ十字:イングランド由来
- 十字の中央:白い6角星(北アイルランドの6つの郡を表す)
- 星の中央:アルスターの赤い手(Red Hand of Ulster)
- 星の上:王冠(イギリス王室への忠誠)
色とシンボルの意味は、以下のとおりです。
- 赤い聖ジョージ十字:デ・バーグ家(中世アルスター領主)の紋章
- 白い6角星の6つの先端:アルスター9郡のうち、北アイルランドに含まれる6郡(アントリム・アーマー・ダウン・ファーマナー・ロンドンデリー・ティロン)
- 赤い手:古代アルスター王の伝説
- 王冠:イギリス王室
1953〜1973年の旧政府旗で、今は半公式の扱い。これが現代の状況です。
「公式な旗がない構成国」
北アイルランドの、世界的に独特な状況を見ていきます。
イギリス4構成国の比較
| 構成国 | 公式旗 |
|---|---|
| イングランド | 聖ジョージ十字 |
| スコットランド | 聖アンドリュー十字 |
| ウェールズ | Y Ddraig Goch(赤い龍) |
| 北アイルランド | 公式旗なし |
3つの構成国は明確な公式旗を持つのに、北アイルランドだけが持たない、というのが現状です。ただし、コモンウェルスゲームズなど一部のスポーツ大会では、歴史的経緯からアルスター・バナーが事実上の旗として掲げられることがあります。
1953-1973年の公式期間
ただし、1953年から1973年までの20年間は、北アイルランドにも公式旗がありました。それがアルスター・バナーで、北アイルランド政府の公式旗として用いられていました。
1972-1973年、政府廃止
1972年、北アイルランド議会がストーモント城で最後の会期を迎えます。北アイルランド紛争(The Troubles)の激化を受けて、イギリス政府が直接統治を導入したためです。
そして1973年、北アイルランド憲法法によって北アイルランド政府が廃止されました。これにともないアルスター・バナーも公式の地位を失い、以後、北アイルランドには公式旗がない状態が続いています。
政府の廃止と同時に、旗も公式の地位を失う。これは世界の旗のなかでも稀な状況です。
「2つのコミュニティ、2つの旗」
北アイルランドの、深刻な分裂を見ていきます。
ユニオニスト(プロテスタント系)
ユニオニスト(Unionist、約48%)は、プロテスタント系でイギリス連合の維持を望む人々です。彼らはユニオン・ジャックやアルスター・バナーを掲げ、北アイルランドはイギリスの一部であるという立場をとります。
ナショナリスト(カトリック系)
ナショナリスト(Nationalist、約45%)は、カトリック系でアイルランド共和国との統合を望む人々です。彼らはアイルランド三色旗(緑白橙)を掲げ、いつかアイルランドと統一することを願っています。
1つの地域に、2つのコミュニティ、2つの旗。これが現代北アイルランドの分断です。ボスニア・キプロス・コソボなどと並ぶ、分裂した地域旗の典型といえます。
北アイルランド紛争
1968年から1998年にかけて、北アイルランド紛争(The Troubles)が続きました。約3,500人が死亡し、ユニオニスト対ナショナリストの宗派・政治対立と、アイルランド共和軍(IRA)の武装闘争が繰り広げられました。
1998年、ベルファスト合意
1998年4月10日、ベルファスト合意(グッドフライデー合意)が結ばれ、紛争は終結しました。しかし、旗の問題は今も未解決のままです。
アルスター・バナー ── 1923-1924年設計
旧公式旗の起源を見ていきます。
ネビル・ウィルキンソン卿
アルスター・バナーは、1923年から1924年にかけて設計されました。ダブリン城でアルスター紋章官のネビル・ウィルキンソン卿(Sir Nevile Wilkinson)が設計したものですが、彼が多忙だったため、実際の最終デザインは助手のトマス・サドリエ(Thomas Sadleir)が手がけました。
1953年、正式採用
1953年、エリザベス2世戴冠式の際に、北アイルランド政府がこれを正式採用しました。こうしてアルスター・バナーが北アイルランド政府の旗となり、以後20年間使用されることになります。
1972-1973年、廃止
そして1972年から1973年、北アイルランド政府の廃止と同時に、アルスター・バナーは公式旗の地位を失いました。以後50年以上、公式旗がない状態が続いています。
「アルスターの赤い手」 ── 1500年の伝説
国旗中央の、最も重要なシンボルを見ていきます。
古代アルスター王の伝説
アルスターの赤い手(Red Hand of Ulster)には、1500年以上の伝説が伝わっています。
古代、アイルランド北部の王位を巡って、2人の戦士が船で競争した。最初に陸地に手を触れた者が王になるという約束だった。1人が先行したため、もう1人は自分の手を切り落とし、陸地に投げた。こうして赤い手が、最初に陸地に触れた。
自分の手を切り落としてでも王位を得る、というアルスター人の決意の象徴です。世界の旗のシンボルのなかでも、最も劇的な伝説のひとつといえます。
現代の意味
現代において、赤い手はユニオニスト・ナショナリストの両方が使う、両コミュニティの共通シンボルとなっています。アルスター人のアイデンティティを表すものですが、ユニオニストが独占的に使う傾向もあります。
1つのシンボルが両コミュニティに共有されながら、独占的にも使われる。これが複雑な現代の状況です。
北アイルランドという構成国
北アイルランドの基本情報です。
- 正式名:北アイルランド(Northern Ireland、アイルランド語:Tuaisceart Éireann)
- 首都:ベルファスト(Belfast)
- 面積:約1.4万km²
- 人口:約190万人
- 公用語:英語・アイルランド語・アルスター・スコッツ語
- 法的地位:イギリスの構成国
「6つの郡」
北アイルランドは、6つの郡からなります。
- アントリム郡(ベルファスト)
- アーマー郡
- ダウン郡
- ファーマナー郡
- ロンドンデリー郡
- ティロン郡
国旗の6角星は、この6郡を表しています。
「ベルファスト」 ── タイタニックの故郷
首都ベルファストは、タイタニック号の建造地です。1912年、タイタニックがハーランド・アンド・ウルフ造船所で建造されました。現在はその歴史を伝える博物館「タイタニック・ベルファスト」があります。
「ジャイアンツ・コーズウェイ」
北アイルランドには、ユネスコ世界遺産のジャイアンツ・コーズウェイがあります。約4万本の玄武岩柱からなる、古代の火山活動による自然現象で、北アイルランド観光の名所となっています。
まとめ:公式旗のない構成国、1500年の赤い手
今回の北アイルランド旗のまとめです。
- 旧公式旗「アルスター・バナー」は、白地に赤い聖ジョージ十字、中央に白い6角星・赤い手・王冠
- 1953〜1973年の20年間のみ公式旗、以後50年以上公式旗なし
- 世界でも珍しい「公式国旗を持たない構成国」
- 1923〜1924年、ネビル・ウィルキンソン卿が設計
- 1953年のエリザベス2世戴冠式で北アイルランド政府が採用
- 1972〜1973年、北アイルランド議会廃止・直接統治導入で公式地位を失う
- ユニオニスト(プロテスタント、約48%)はユニオン・ジャックやアルスター・バナーを使用
- ナショナリスト(カトリック、約45%)はアイルランド三色旗を使用
- 1968〜1998年「北アイルランド紛争(The Troubles)」、約3,500人死亡
- 1998年4月10日、ベルファスト合意で紛争終結
- アルスターの赤い手は1500年の伝説(手を切り落として陸地に投げた)
- 両コミュニティの共通シンボルだが、独占的にも使われる
- 6角星はアルスター9郡のうち北アイルランドに含まれる6郡
- 首都ベルファストはタイタニック建造地
- ジャイアンツ・コーズウェイ(ユネスコ世界遺産)
公式旗のない構成国、しかし1500年の伝説の手を持つ。北アイルランドの旗は、世界で最も政治的に複雑な地域の旗であり、分裂した社会の現実を体現する1枚です。