赤と白の縦帯のあいだに、真っ赤なメープルリーフ。カナダの国旗です。世界でもっとも識別度が高い国旗のひとつで、見ればすぐカナダとわかります。でもこの旗、採用までに議会で308回もの演説が交わされた大論争があり、しかもメープルリーフの葉の稜が11本である理由には、ちょっと意外な真実が隠れています。今回はそんなカナダ国旗の話。
まずは構成のおさらい
カナダ国旗の構成は、非常にシンプルです。
- 左右の縦帯:赤
- 中央の正方形に近い領域:白
- 白い領域の中央:11枚の稜を持つ赤いメープルリーフ
色は赤と白だけ、シンボルはメープルリーフ1つ。足し算が極まっているデザインとして、世界の国旗のなかでも特別な位置にあります。国旗デザインの教科書で「成功例」として挙げられることが多い1枚です。
色の由来は、次のとおりです。赤と白は、1921年にジョージ5世国王が「カナダの公式色」として定めた色です。メープルリーフは、19世紀からカナダ人のアイデンティティ・シンボルとして広く使われていました。
1965年以前は「ユニオンジャック入り」だった
カナダがこのメープルリーフ・フラッグを採用したのは、1965年2月15日。意外と最近のことです。
それまでカナダは、レッド・エンサイン(Red Ensign)、つまり赤地に左上にユニオンジャック、右側にカナダ国章を配した旗を使っていました。「イギリス連邦の一員」というアイデンティティを明示する旗で、19世紀末から半世紀以上使われていたんです。
ところが、20世紀後半に入ると、「もう完全に独立した国家として、独自の旗を持つべきだ」という機運が高まっていきます。移民国家としての多様性、フランス語圏ケベックとの関係、国際社会での独自性など、いろんな要因が重なって、ユニオンジャックを外してカナダらしい旗を作ろうという運動が始まりました。
きっかけは1956年のスエズ危機
新しい旗への動きを決定づけた出来事が、1956年のスエズ危機です。
エジプトのナセル大統領によるスエズ運河国有化に対して、イギリス・フランス・イスラエルが軍事介入しました。カナダの外相だったレスター・B・ピアソンは、国連で平和維持軍の派遣を提案し、後にこの仕事で1957年のノーベル平和賞を受賞します。
ところが、いざカナダの平和維持軍がエジプトに展開しようとしたとき、エジプト政府から反対されたんです。理由は次のようなものでした。
「カナダのレッド・エンサインに描かれているユニオンジャック。これは、イギリス(紛争当事国)と同じ旗じゃないか。中立の平和維持軍として認められない」
カナダ側は反論しましたが、「平和維持軍の旗にユニオンジャックがあるのは、紛争当事国を連想させて問題だ」というエジプトの主張は、ピアソンの心に深く刻まれます。国旗が、独立した中立国家としての行動を妨げる。この経験が、後年のピアソンを「独自国旗の制定」に駆り立てるきっかけになりました。
1964年、「大旗論争」の始まり
1963年の選挙で、ピアソンは自由党党首として首相に就任します。選挙公約に「カナダ独自の国旗の制定」を掲げていました。
1964年5月、ピアソンがウィニペグのロイヤル・カナディアン・リージョン(退役軍人会)の総会で「メープルリーフを中心とする新国旗を作る」と宣言した瞬間から、大旗論争(Great Flag Debate)が始まります。
反対派の急先鋒は、ジョン・ディーフェンベイカー。前首相で、進歩保守党党首でした。「レッド・エンサインこそカナダの歴史と伝統だ」として、新国旗案に徹底抗戦します。
特に退役軍人会のなかには、「我々はレッド・エンサインのもとで戦って死んでいった戦友のために、この旗を守らねばならない」と感情的に反対する人々も多く、論争は文化戦争の様相を呈しました。
そして始まったのが、カナダ史上もっとも長い議会論争のひとつです。下院での演説は308回(カナダ百科事典では250回、別の歴史家は270回と、数えかたで多少の幅があります)、特別委員会は35回の会議を重ね、ディーフェンベイカーによるフィリバスター(議事妨害)もありました。論争期間は1964年6月から12月までの約半年間に及びます。
新しい旗を1枚決めるのに、これだけの時間と議会のエネルギーがかかった。これは世界の国旗の歴史のなかでも、なかなか例のないレベルの論争です。
1964年12月15日午前2:15、可決
最終決議は、1964年12月15日。夜を徹した審議の末、午前2:15に下院で可決されました。長い長い大旗論争に、ついに終止符が打たれたのです。
採用されたのが、ジョージ・スタンレー博士のデザインでした。
ジョージ・スタンレーとは
スタンレーはマウント・アリソン大学の歴史学者で、当時はカナダ王立軍事大学(RMC)の歴史学部長でした。彼は1964年3月、ピアソン首相の側近であるジョン・マシューズに手紙を書いて、「RMCの旗(赤い縦帯+白地に大学紋章)を参考にしたデザイン」を提案していました。
スタンレーの提案は、赤の縦帯(左右)と白地(中央)を組み合わせ、中央に赤いメープルリーフを1枚置くというもの。「単一のメープルリーフ=1つのカナダへの忠誠」というシンボリズムを込めたものでした。
このコンセプトが採用され、現在のカナダ国旗になります。
1965年2月15日、初掲揚
論争の決着から2ヶ月後の1965年2月15日、ついに新国旗がオタワの国会議事堂で初めて掲揚されました。
午前正午、レッド・エンサインが下ろされ、メープルリーフ・フラッグが上げられる瞬間。新聞写真には涙を流すディーフェンベイカーの姿が捉えられました。一方、ピアソンは「首相在任中の最も誇らしい瞬間」と後に語っています。
2月15日は現在も「カナダ国旗の日(National Flag of Canada Day)」として記念されています。
メープルリーフの稜は「11枚」、なぜ?
カナダ国旗のメープルリーフをよく見ると、葉の縁にある稜(とがった部分)が11個あることに気づきます。
「11」という数字、何かを表しているのではないかと多くの人が思いますが、じつは何の意味もないんです。
13枚→11枚への変更
ジョージ・スタンレー博士の最初のスケッチでは、メープルリーフは13枚の稜を持つデザインでした。「カナダの10州+3準州?」と思いたくなりますが、スタンレー本人は「カナダの州数と関連させて13にしたわけではない」と明言しています。
ところが、最初の試作品を遠くから見ると、13枚の稜だと細かすぎて、葉の形がぼやけて見えることが判明します。葉の形を遠くからもくっきり認識させるためには、稜を減らす必要がありました。
そこでカナダのグラフィックアーティスト、ジャック・サン=シル(Jacques Saint-Cyr)が、稜を11枚に減らした最終デザインを完成させました。
つまり「11」は、視認性のために、デザイン上の理由でちょうどよかった数であって、州の数や領土の数とは関係がありません。後年、いろんな人が「11は10州+1準州を表すのでは?」と推測しましたが、スタンレー本人もサン=シルも、それを否定しています。
シンボルなのに、シンボリックな意味はない。カナダ国旗の意外な真実です。
「もう変えない」と言われる旗
メープルリーフ・フラッグは、1965年から60年以上、一度もデザインを変えていません。カナダ人にとっては「国旗の代名詞」で、もはやこれ以外のデザインは想像しにくいくらい定着しています。
世界的にも、もっとも識別度が高い国旗のひとつとして旗章学者のあいだで評価が高い1枚です。
シンプル、ユニーク、視認性が高く、文化的な意味(メープル=カナダのシンボル)も明確。優れた国旗のデザイン教科書として、よく引き合いに出されます。
ピアソンが新旗の宣言演説で語った言葉は、いまも重く響きます。
「我々の国は、ユニオンジャックでもなく、星条旗でもない、独自のシンボルを持つにふさわしい」
まとめ:論争の末に生まれた、世界で一番認識される国旗
今回のカナダ国旗のまとめです。
- 赤と白の縦帯+中央に11枚の稜を持つ赤いメープルリーフ
- 1965年2月15日初掲揚、議会可決は1964年12月15日午前2:15
- それ以前は「レッド・エンサイン」(赤地+ユニオンジャック+カナダ国章)を使用
- 1956年スエズ危機でエジプトから「ユニオンジャックがあるのは中立性に欠ける」と指摘されたのが転換点
- 1964年5月から始まった「大旗論争」は約半年間で下院演説308回、35回の特別委員会会議、ディーフェンベイカー党首によるフィリバスターも
- デザイナーは歴史学者ジョージ・スタンレー博士、カナダ王立軍事大学の旗をベースにした
- メープルリーフの稜は当初13枚で、グラフィックアーティストのジャック・サン=シルが視認性のため11枚に削減
- 11という数字に州や領土の数のような意味はなく、純粋にデザイン上の判断だった
- 2月15日は「カナダ国旗の日」、60年以上デザインは不変
シンプルなのに、ここまで議論を呼んだ国旗。11という数字に意味はないのに、誰もがそこに意味を見出したくなる。カナダの旗は、国旗のデザイン論そのものを考えさせてくれる、世界で最も成功したシンボルの1つです。